「小羊の会」2022年11月24日
☆ 法亢聖親牧師からのメッセージ
「あなたの息子は生きる」 ヨハネによる福音書4章43~54節
1、序
ヨハネ福音書は、イエスさまがガリラヤからエルサレムまでの間を何度も旅されたことを強調しています。(他の福音書は、最後のエルサレムへの旅だけを強調しています)。ヨハネ福音書は、イエスさまがガリラヤからエルサレムの旅を繰り返す度に、イエスさまの福音と業の意味を深めていくという形で書かれています。本日の箇所もそうです。54節に「2回目のしるしである」と記されていますが、この言葉がヒントになります。
ガリラヤのカナで始まってエルサレムに出かけ、サマリアのシカル(ヤコブの井戸)でサマリアの女性に出会い、そしてガリラヤに戻ってこられました。これが第1回の旅です。そしてここで第2回の旅が始まるのです。(一説によりますと2章から12章には7つの物語が記されていると言われています。またそれらの出来事は、ガリラヤからエルサレム、エルサレムからまたガリラヤに戻るという回り方の旅の中で起こります。)
第1回目の旅は、カナの婚礼の出来事、そしてエルサレムに上りエルサレム神殿を3日で建て直すと言われ、ニコデモとの対話で、水をめぐる議論をされました。その中でヨハネは、幾度も「しるしの出来事」と記しています。そしてこれまで人々が「しるし」を表面的に見ていることを伝えています。その上でヨハネは、主が示される「しるし」は表面的なものではなく、その奥に意味があることを伝えているのです。
2、イエスさま、ガリラヤで歓迎される(4:43~45)
43節から45節は、46節から54節の「生と死の話」の前置きです。イエスさまは、サマリアのシカル(スカル)の出来事から2日後、ガリラヤに戻られました。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」(44節)イエスさまは、故郷のナザレに帰った時、めだったしるし(奇跡)を行わなかったせいもあり排斥されたことがありました。その経験を思い出してこう言われたのだと思います(マタイ13:53~58)。ところがヨハネは、44節のようなことを記しながら、他の福音書と違って45節のようなことを記しています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」
ガリラヤの人たちは、「過ぎ越しの祭り」のためエルサレムへ行った時、イエスさまがなさったしるしをすべて目撃していたのです。それでイエスさまを大歓迎したというのです。
3、生と死の問題-役人の息子をいやす-(4:46~54)
ヨハネは、イエスさまが第2のしるしを行われる前に43~45のことを前置きとして記したのは、ガリラヤの人々が、イエスさまを歓迎したのは、イエスさまがエルサレムで素晴らしいことをした(しるしを見た)からだというためです。
ここには、ヘロデ王の役人が、カファルナウム(カペナウム)からイエスさまがいらしたカナまでやってきて、イエスさまに息子の病気を治して欲しいと願い出たことが記されています。ガリラヤ湖畔の町カファルナウムからカナは、標高差600メートルあります。そこをこの役人は、息子を救ってもらいたい一心で上ってきたのです。そして彼のイエスさまを信じる信仰が彼の愛する息子を救った(4:50)とヨハネは記しています。ところがヨハネはこの一連のできごとを注意深く記しています。「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」(48)。イエスさまはかなり冷たい言い方をこの役人にしました。しかしこの役人は、イエスさまの「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言う「言葉を信じて帰って行った」(50)のです。カファルナウムに帰る途中、彼を迎えに来たしもべたちがその子が生きていることを彼に告げたのです。彼がしもべに息子がいやされた時刻を尋ねると、イエスさまが「帰りなさい、あなたの息子は生きる」と言われた時刻と同じであったと記されています(53)。
ヨハネの主題は、「ゾーエー」と言う言葉にあります。「命」、「生きる」、「存在する」「ある」という意味の言葉です。
ラザロの蘇生の物語の伏線です(11章)。私たちは死を免れないけれども、生と死を乗り越えるいのちの世界がることを2章から12章のヨハネの記事は伝えているのです。主ご自身も十字架上で死なれ、死を免れませんでした。しかし聖書は、特にヨハネ福音書は、その死を越える永遠のいのちがあることを伝えています。そこに主を信じる信仰が生まれるのです。これがキリスト教の真髄です。本日の箇所で役人の息子が死に瀕していました。けれども、この役人が主によって生きるいのちを見出したために、みんな(彼の家族)が主を信じたのです。
私たちは、自分のいのちは終わりになることを知っています。しかし、主によって生きるいのちも同じように備えられていることを知らされるのです。